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国家総動員法施行の日徳島駅に集まったバス(昭和13年)
大正から昭和にかけて県内各地で公営・民営のバス会社が設立されていました。昭和15(1940)年、政府はバス会社統合の方針を打ち出し、やがて県内のバスは徳島バス統合株式会社(徳島バス)・西部乗合自動車有限会社・徳島市営バスの3社に統合されていきます。
資料提供/徳島新聞社
昭和19年12月22日、澄み渡った青空に6すじの白い帯状の雲が鮮麗に刻まれていった。先端に銀色の6点が光、流れるように北東へ、白い帯は冬の高空に突き刺さるように移動していった。その時、県民ははじめてB29を見た。その時、傍観者的な印象であった。しかし、年が明けて昭和20年、日本空襲最大の「決定的」な3月10日の東京空襲に続いて、12日には名古屋、14日大阪、17日神戸を焼夷弾で焼き払っていった。5月に入って中国・四国地方への爆弾の手が伸び始めた。6月1日徳島市沖洲へ焼夷弾数百投下、5日に津田町へ、6月15日吉野本町へ焼夷弾攻撃、いずれもB29・1機の飛来であった。同月22日に秋田町へ50キロ爆弾、同月26日住吉島(現住吉町)や助任本町へ1トン爆弾が投下され、死者200人を出した。軍需工場の少ない片田舎にと、たかをくくっていた人たちはエスカレートする来襲にふるえおののいた。
そして運命の7月3日。夜半から翌4日早朝にかけて徳島市は、「空の超要塞」B29重爆撃機の焼夷弾攻撃を受け市街の62%、462万m2が焦土となり、戦災戸数16,288戸、被害者数70,295人、死者1,001人(男431人、女553人・性別不明17人)重軽傷者約2,000人を出し、県庁をはじめ、官公庁、学校、図書館、徳島駅、銀行、郵便局、病院、神社、寺院、会社などめぼしいほとんどを焼失し、交通機関、通信機関、電気、水道はすべて停止し徳島市の機能は完全にマヒした。
新町橋/
戦後、新町橋の残った橋桁を利用した仮橋が架けられていましたが、昭和24(1949)年に復旧。その後、戦災復興区画整理によって道路が拡張したことにともなって、昭和27年に西側に新橋が建設され二重橋になりました。
資料提供/徳島県立文書館