あの日、あの時、わが町とくしまは・・・ 徳島大空襲デジタルアーカイブ


戦前から戦後の徳島を貴重な写真でご紹介。


写真





明治40年代の徳島市
眉山から撮影した明治40年代の徳島市。このころは阿波藍の衰退とともに徳島市の繁栄にもかげりが見え始めていましたが、まだまだ城下町の名残を残した「四国一」の都市でした。
資料提供/徳島県立文書館



上/大滝山(絵葉書)(戦前)
徳島市寺町に隣接する眉山山麓は大滝山と呼ばれています。深刻な不況に苦しむ昭和初期、この一帯は桜の名所として観光地化がはかられました。

下/大滝山三重塔(絵葉書)(戦前)
江戸時代中期の寛延年間に建てられた大滝山持明院三重塔は、城下町徳島を代表するランドマークでしたが、徳島大空襲によって焼失してしまいました。
資料提供/徳島県立文書館

両国橋(徳島市名勝絵葉書)       
明治13(1880)年、木造の賃取橋(有料の橋)として架けられたのが両国橋のはじまりです。当時の行政単位である一小区(内町地区)と二小区(新町地区)を結んでいたことから「両合区橋」と命名されました。その後何回かの掛け替えが行われた後に、昭和2(1927)年に曲弦トラス型式の鉄筋コンクリートの橋が完成し、「両国橋」と改名されました。
資料提供/徳島県立文書館

新町川の藍倉(昭和初期)
新町川沿いに立ち並ぶ藍倉は、城下町徳島の経済的繁栄の象徴でした。
資料提供/徳島県立文書館


新築された徳島県庁(徳島市万代町・昭和5年)
昭和5年に新築された徳島県庁は、レンガ造り風の帝冠様式鉄筋コンクリート建築で、設計は、学士会館や旧国技館を手がけた佐野利器博士。新町川に西日本屈指の県都を象徴するかのごとく、堂々とした偉容を映している(長江義氏撮影)
資料提供/徳島県立文書館



上/開店当時の丸新百貨店
昭和9年3月24日、新町百貨店として徳島市東新町で開店した。翌年「丸新」と改称。鉄筋3階建ては当時、市民の目をみはらせた。

下/大丸セルモス店(昭和10年)
丸新百貨店・一楽屋百貨店などの開店に対抗して、東新町の小売商店主たちはさまざまな経営努力を重ねていきました。この写真は大丸セルモス店の大売り出しの様子。

資料提供/徳島県立文書館

新町橋にて阿波踊り(昭和11年)
新町橋上を通る阿波踊りの一行。昭和7(1932)年に結成された「徳島観光協会」などによって、阿波踊りの県外への宣伝と観光イベント化が進められていました。
資料提供/徳島県立文書館

戦前の東新町
徳島でも昭和6年(1931)の籠屋町を皮切りに、東新町・西新町・新町橋筋とアーケードが広がっていき、商店街に独特の雰囲気が生まれていきました。
資料提供/徳島県立文書館

徳島・新町橋(絵葉書)(戦前)
資料提供/徳島県立文書館

徳島名勝・新町橋(絵葉書)(戦前)
近世初期に架けられた新町橋は眉山や鷲の門などと並ぶ城下町徳島のシンボルでした。江戸時代にも何回かの架け替えが行われましたが、明治13(1880)年に大阪砲兵工廠で鋳造された橋材を使った鉄橋となりました。
資料提供/徳島県立文書館
 

昭和初期の紺屋町(昭和初期)
ツタに壁が覆われている建物が立木写真館。この先の角を左に曲がれば検番があります。
資料提供/徳島県立文書館

第一劇場(東新町の映画館)(昭和10年頃)
上映されているのはH・ハガードの名作冒険小説を映画化した『洞窟の女王』(1935年米国)です。
資料提供/徳島県立文書館




徳島市警防団員(指導員の服装)昭和14年
資料提供/徳島新聞社

 

贅沢は敵だ!筒袖モンペの女性着(昭和18年)
資料提供/徳島新聞社

加茂名女子青年団のはしご操法(昭和18年)
資料提供/徳島新聞社
 


防空演習・空襲警報発令(昭和19年)
資料提供/徳島新聞社



上/防空演習/バケツリレーの消火訓練(昭和15年)
下/徳島市の燈火管制規則(昭和16年)
資料提供/徳島新聞社

国家総動員法施行の日徳島駅に集まったバス(昭和13年)
大正から昭和にかけて県内各地で公営・民営のバス会社が設立されていました。昭和15(1940)年、政府はバス会社統合の方針を打ち出し、やがて県内のバスは徳島バス統合株式会社(徳島バス)・西部乗合自動車有限会社・徳島市営バスの3社に統合されていきます。
資料提供/徳島新聞社

徳島駅に出征兵士を送る(戦前)
徳島駅での出征兵士送別式の様子。タスキに書かれている大日本国防婦人会は昭和7(1932)年に軍部への協力を目指して結成されました。出征兵士歓送迎事業や廃品回収運動、毛布献納運動などを行っていましたが、昭和17年に大日本婦人会に統合されました。
資料提供/徳島新聞社
 


出征兵士を送る/昭和13年、応召された若者たちを歓呼の声で送る海部郡日和佐町赤河内(現海部郡美波町)
終戦当日の赤紙/昭和20年の終戦日に入隊することになっていた召集令状で、その存在は珍しい。
資料提供/徳島新聞社



上/入隊風景/大正末期、徳島市蔵本町の歩兵第43連隊に入営する応召軍人。
下/晴れの出征/昭和16年、阿波郡阿波町(現阿波市)で入隊を祝って家族と写したもの。
資料提供/徳島新聞社

野外軍事訓練の徳中生/昭和16年12月8日、太平洋戦争に突入した。毒ガス、細菌戦なども登場、実践に即応できる厳しい訓練が行われた。
資料提供/徳島新聞社

徳島海軍航空隊/「明日は死ぬ身」と憩いのひとときをレコードに慰められる。
資料提供/徳島新聞社
 

徳島海軍航空隊白菊特別攻撃隊/菊水作戦に出撃を前にした昭和20年5月20日の記念撮影。隊員の3分の1は沖縄の戦線で華と散った。(徳島海軍航空隊管制塔前にて)
資料提供/徳島新聞社

徳島海軍航空隊/昭和17年4月1日、板野郡松茂村(現松茂町)に開隊。練習航空隊としてスタート。昭和20年作戦航空部隊となり、5月25日神風特攻隊徳島第1白菊隊を編成、以来、第5白菊隊まで5隊が沖縄へ出撃した。勢ぞろいした昭和20年頃の白菊機。
資料提供/徳島新聞社




眉山から見る寺町・新町・内町地区
資料提供/徳島県立文書館

昭和19年12月22日、澄み渡った青空に6すじの白い帯状の雲が鮮麗に刻まれていった。先端に銀色の6点が光、流れるように北東へ、白い帯は冬の高空に突き刺さるように移動していった。その時、県民ははじめてB29を見た。その時、傍観者的な印象であった。しかし、年が明けて昭和20年、日本空襲最大の「決定的」な3月10日の東京空襲に続いて、12日には名古屋、14日大阪、17日神戸を焼夷弾で焼き払っていった。5月に入って中国・四国地方への爆弾の手が伸び始めた。6月1日徳島市沖洲へ焼夷弾数百投下、5日に津田町へ、6月15日吉野本町へ焼夷弾攻撃、いずれもB29・1機の飛来であった。同月22日に秋田町へ50キロ爆弾、同月26日住吉島(現住吉町)や助任本町へ1トン爆弾が投下され、死者200人を出した。軍需工場の少ない片田舎にと、たかをくくっていた人たちはエスカレートする来襲にふるえおののいた。
 そして運命の7月3日。夜半から翌4日早朝にかけて徳島市は、「空の超要塞」B29重爆撃機の焼夷弾攻撃を受け市街の62%、462万m2が焦土となり、戦災戸数16,288戸、被害者数70,295人、死者1,001人(男431人、女553人・性別不明17人)重軽傷者約2,000人を出し、県庁をはじめ、官公庁、学校、図書館、徳島駅、銀行、郵便局、病院、神社、寺院、会社などめぼしいほとんどを焼失し、交通機関、通信機関、電気、水道はすべて停止し徳島市の機能は完全にマヒした。


米軍撮影徳島市航空写真(空襲前)(昭和20年3月)
米軍が昭和20(1945)年3月24日に撮影した航空写真。この写真や戦前に発行されていた地図その他をもとに米軍は詳細な徳島市の地図を作成し、徳島大空襲の作戦計画を立てていました。
資料提供/徳島県立文書館

米軍撮影徳島市航空写真(空襲翌日) (昭和20年7月5日)
大空襲翌日の7月5日に米軍が撮影した航空写真。数時間の空襲で徳島市の中心部が完全に焦土と化した様子がうかがわれます。
資料提供/徳島県立文書館

佐古大谷付近
なにもない殺伐とした佐古大谷付近の風景。露天風呂で憩いをとる老夫婦に戦争のみじめさを感じる。佐古山は毎年春になると美しい色が山を包んでいたが、戦災で荒れ果てた。
資料提供/徳島県立文書館

焼けただれた新町橋
市民に親しまれていた新町橋も空襲で無惨に焼けただれた。モダンな姿を川面に写し、思い出多い橋であった。その後残った橋桁を活用して仮橋が架けられました。
資料提供/徳島県立文書館

両国橋、かちどき橋、県庁など新町川をはさんで両側の新町、東富田、内町地区は煙突と鉄筋建築のみ残る瓦礫の街。
資料提供/徳島県立文書館



上/佐古5丁目諏訪神社の石橋から馬場への道路は田宮方面に通ずる(佐古三番町付近)
下/佐古山腹より西北方の佐古六・七番町方面は家は一つもなく広地に変わった。
資料提供/徳島県立文書館

上/内町方面の惨状/両国橋から内町をみると、内町小学校の鉄筋建物と駅前付近の農業会館や白壁の土蔵が、その姿をとどめている。

右/西新町付近/江戸時代からの建築様式の土蔵は、戦火に耐えて焼け残った。人々は一時住居の代用として使っていた。空襲はエレクトロン焼夷弾や油脂焼夷弾の雨であった。
資料提供/徳島県立文書館

徳島商工会議所、阿波商業銀行、三和銀行、電話局など鉄筋建物が焼け残った西船場、西新町筋
資料提供/徳島県立文書館

佐古1丁目妙法寺付近は跡かたもなく佐古本町の道路のみが白く線を引いたように見える。
資料提供/徳島県立文書館

佐古本町・小裏丁・大裏丁3・4丁目(現佐古)、松の内・緑丁あたりは戦災からまぬがれたところもある。
資料提供/徳島県立文書館

西富田地区の焼け跡/勢見山の金比羅神社の絵馬堂から見た西方の西富田の焼け跡。戦災者は肉親の安否を求めてごった返した。
資料提供/徳島県立文書館

大道4丁目の山内病院の門がのこり大道筋は道路をはさんで両側は焼け落ちた。
資料提供/徳島県立文書館

新町周辺の焼け跡
銀行、百貨店の鉄筋建築物が形をとどめるだけで、一面の焼け野原になった徳島市の商店街。戦火は徳島も例外でなく、各都市を無差別に破壊し炎上させた。
資料提供/徳島県立文書館



上/焼けた寺町/墓石も焼け果てて崩れ落ちる悲惨な寺町の風景。戦災以前は立派な山門が並んで、ねりへいがつづく。大きい本堂の屋根がそびえて威信をしめしていた。
下/出来島の製氷会社の氷室とガスタンクが見えるだけになった(三島神社山腹から)
資料提供/徳島県立文書館

昭和20年7月、多家良方面で米軍機からまかれたビラ/昭和20年7月4日の大空襲から1週間ほど経ったころ、焼け野原の徳島市の上空からビラがまかれた。「無駄でみにくい死に投じるか、名誉ある平和を選ぶか」といった意味のことが日本語で書かれていた。無駄な抵抗はやめよという趣旨。軍隊ではこうしたビラを「伝単」といって、民間人が拾うと警察や憲兵隊がすぐ回収し、見る事を禁じ、所持することも許されなかった。
資料提供/徳島新聞社





ヤミ市/焼土の中に生まれたヤミ市から人々は禁制品などを買った(昭和21年)
アメリカ軍の徳島進駐と相前後してヤミ市が生まれた。占領軍から「ブラックマーケット」といわれて敵視されたが、市内の人たちにはなくははならない存在であった。昭和20年10月頃、徳島駅前から元町一帯にかけて店開きし、腹をすかした人たちが、よしずはりの天井から青空ののぞいている露店に群がった。昭和22〜23年までが全盛期で、その数70軒。今、市内の目抜きで堂々と店をかまえている有名店の中にも、かつてはこのヤミ市から出発した人もいるようだ。ヤミ市は戦後社会の象徴であった。
資料提供/徳島県立文書館





上/徳島駅前のバラック/終戦直後はこんな粗末なバラック建てでも結構商売が繁盛した。
下/徳島駅前のヤミ市/昭和23年頃にはざっと70軒。甘いものに飢えた人々はみつ豆、菓子に群がった。
資料提供/徳島新聞社

昭和24年頃の徳島駅前/ヤミ市が斜陽化をたどり始めた頃。現在の名店街あたりにはクツ磨きが並んでいた。日よけに破れ番傘のたたずまいに戦後の混乱のあとが、まざまざと残っている。映画の看板は市川右太衛門主演「富士に立つ影」。
資料提供/徳島新聞社

復興する大道、富田方面/昭和22年頃から、除々に復興の兆しがみえ、市内はようやく活気づいてきた。区画整理もようやくいとぐちがついてきて、新しい徳島市の胎動がはじまった。。
資料提供/徳島新聞社

応急住宅づくり/人々は焼土の復興に、いち早く立ち上がった。焼け野原にバラック住宅が建てられて雨露をしのいだ。資材の入手には人知れず苦労があった。
資料提供/徳島新聞社

電気バス/定員33名、運行時速25キロ昭和23年(1948)から3年間市内路線を走る。



トレーラーバス/昭和24年(1948)8月に上鮎喰線に2両配車。

徳島市西船場の銀行街。右手前は商工中金、その向こうに阿波商業銀行(現阿波銀行)が見える。昭和26年頃
資料提供/徳島県立文書館


終戦直後の徳島駅/昭和20年7月の震災によって徳島駅は焼失。翌21年2月木造平屋建ての応急(バラック)駅舎が完成。昭和25年11月の改築まで続いた。駅前にはヤミ市が立ち並び、腹をすかした人たちが露天に群がった。昭和21年頃。


キャンデーの行商が大はやり。旧市民会館前で遠足の小、中学生に飛ぶように売れていた。

ヤミ市を行く/終戦直後の徳島駅前。バラック建ての小屋で蒸しパン、白米の握り飯、イリコなどが売られ人々が群がった。




市民の足リンタク/昭和22年頃、徳島駅前のバラック住宅前で客を待つリンタク。当時は市民の足として活躍。このリンタクもバス、タクシーの増加により姿を消した。

リンタク時代/リンタクは終戦後、復興徳島の交通機関を担った。ゴム不足のため、タイヤに縄をまいたりして走った。徳島駅前で夏の日パンクを防ぐため、濡れムシロで車輪を覆うリンタク群。昭和22年頃。


新町橋/
戦後、新町橋の残った橋桁を利用した仮橋が架けられていましたが、昭和24(1949)年に復旧。その後、戦災復興区画整理によって道路が拡張したことにともなって、昭和27年に西側に新橋が建設され二重橋になりました。
資料提供/徳島県立文書館


新町橋、仮橋架設中(昭和23年)

建設中の新橋

完成後新町橋、の新橋と旧橋

戦後・市役所前の阿波踊り(昭和21年)
戦争中に中止されていた阿波踊りは昭和21(1946)年に復活します。これはそのときの徳島市役所前での踊り風景ですが、見物する進駐軍兵士の姿が時代を現しています。
資料提供/徳島県立文書館

新町橋より新町をのぞむ(昭和25年)
まるしんの屋上にあるのは遊具でしょうか。
資料提供/徳島県立文書館

昭和25年徳島銀行の前身、徳島相互銀行(徳島市富田浜側)
資料提供/徳島県立文書館

整備された徳島駅前(徳島市・昭和35年頃)
みごとに生まれ変わった徳島駅前ロータリー。駅前広場は5,200余坪にも拡げられた。右は昭和26年に復興された徳島駅舎。左の角に建つ白い建物は、徳島市産業観光会館で、その後ろには内町小学校(現そごう百貨店)が見える。
資料提供/徳島県立文書館

天神まつり/7月25日に行われる眉山天神社夏祭りの本宮は徳島の子どもたちにとって、夏休みの始まりを告げる一大イベントだったそうです。昭和29(1954)年に復活した船渡御と花火も今は途絶えてしまっています。
資料提供/徳島県立文書館

新町バラックの時代 南内町公園(昭和38年)
資料提供/徳島県立文書館

新町水上喫茶コティ。(昭和30年)
資料提供/徳島県立文書館

新町川(水上喫茶)コティのアイスクリーム(昭和30年)
かつて新町橋のたもとにあった喫茶店です。
資料提供/徳島県立文書館

盆踊りでごったがえす東新町(昭和34年)
資料提供/徳島県立文書館

東新町からの風景(昭和34年)
資料提供/徳島県立文書館





ベーゴマ遊び(戦後)
資料提供/徳島県立文書館

相撲(津田幸好氏撮影)(戦後)

徳島児童文化公園(昭和30年)
昭和29(1954)に開演した児童文化公園は、隣接する徳島市立動物園とともに、徳島の子どもたちにとっての夢の世界でした。
資料提供/徳島県立文書館

元町から新町橋をのぞむ (昭和23年)少しずつ復興の進む徳島の風景です。
資料提供/徳島県立文書館

模型飛行機大会(昭和32年)
資料提供/徳島県立文書館

独楽回し(津田幸好氏撮影)(戦後)


子守の少女(津田幸好氏撮影)(戦後)
資料提供/徳島県立文書館

子守の少年(戦後)(津田幸好氏撮影)
資料提供/徳島県立文書館

出前持ちの少年(津田幸好氏撮影)(昭和30年)
資料提供/徳島県立文書館

園児たちのフラフープ(昭和30年) 
資料提供/徳島県立文書館

沖洲臨海学校(昭和30年)
資料提供/徳島県立文書館





新町橋/藩政時代は、ご城下の武家屋敷(寺島)と下町(新町界隈)を結ぶ重要な関門であった。昭和14年に、かちどき橋が架けられ国道の基点がその畔におかれるまで、国道21号線と22号線の道路の元標は、この橋の北詰西側に建てられていた。明治13年5月に掛け替えられた長さ53.27m、幅7.27の橋は、本券最初の鉄橋で、モダンな姿を川面に写し思い出多い橋であったが、昭和20年7月の空襲で焼け落ちた。昭和24年焼け残った橋桁を利用したこれまでの橋を復旧するとともに、昭和27年に西側(上流)に新しい橋を併設して二重橋とし、その装いを一変した。

焼け残った橋桁に架けた木橋を渡る人並(昭和22年)1947
資料提供/徳島県立文書館

二重橋となって面目を一新した橋上を市営の観光バスがオンパレード 昭和32年(1957)
資料提供/徳島県立文書館